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羅門が語る病気の事
先日から、私が病気に対して感じていることを書いていますが、最近思うことは、病気の難しい問題を「神仏の力で解決しよう、あるいはお願いしよう」と思う人が極端に減った、ということです。
例えば、私のホームページの中でも「ガン・難病専科」という、そういったご病気に関して悩んでいらっしゃる方向けのコーナーがあります。毎日、何らかの病名でインターネットで検索をして、私のホームページにたどり着いて見る方がいらっしゃるようです。胃がんとか肺がんとかいう病気から、聞いたこともないような長い病名まで、いろいろな検索の跡があるようです。しかしそういう方に言えることは、そのご病気に関するページは見ているのに、私のところでそのご病気に対してどのような祈願ができるのかとか、私と会って、直接話をするにはどうしたらいいのかといった、病気の問題を解決するための文章を見る方が、ほとんど見受けられないということが、データで上がってきています。

人間は昔から、人間の力で解決できないことを神仏にお願いするということは、ごく当たり前に行ってきました。キリスト教などでも「神の奇跡」ということを期待して信仰の道に入るということがありますし、前回の「病気の事」にも書きましたように、アメリカ人の半分はそういった気持ちを持っています。また日本でも、昔は千羽鶴を折るとか、お百度参りをするとか、そういった形で神仏の加護を求めることが行われてきていました。そのように、人間の力で解決できる問題と、神仏の力がなければ解決できない問題とを、昔の人は当たり前のように、あるいは自然に、明確に分けていたのです。その上で、神仏の力でなければ解決できない問題は、きちんと神仏に対してお願いをするという気持ちを持っていました。
それが最近では、神仏の力でなければ解決できないような問題があっても、まるで問題自体を無視しているかのように、諦めてしまう人が多いように私には感じられます。人間の力、つまり科学の力で解決できることが昔と比べて増えたからなのか、それとも神仏に対する意識が無くなってきたのか、はたまた、いい加減な詐欺のような宗教やテロ集団のような宗教が多すぎるからなのか、明確な理由はわかりませんが、そういった印象を受けるのは事実です。
「人事を尽くして天命を待つ」というのは、もちろん大切なことです。しかしその「人事を尽くす」中に、神様や仏様に対してお願いをする、神様や仏様の御加護を頂けるように努力するということは、私に言わせれば絶対に必要なことですし、当然のことなのです。それを無くして、難しい問題の解決はありません。

今回は「病気の事」というテーマですから、病気の問題のお話をしますが、最近は医学が進歩して、新しい薬や治療法が次々と使われるようになってきました。それによって、昔は不治の病と言われた病気でも、治ったり、病気になる前と変わらない生活ができたりすることが、うんと増えてきました。それは大変素晴らしいことだと思います。しかし医学がいくら進歩したと言っても、医学にはどこかに限界があるということは、昔から何も変わっていません。それを忘れていたり、勘違いしている人がいらっしゃるということは、間違いないでしょう。医学的に最大限適切な治療をしても助からないというのは、まさに医学の限界です。それを「医者が悪いから助からなかったんだ」とか言って、一生懸命に最善を尽くしてくれた医者を非難したり、裁判に訴えたりする人などは、まさに医学に限界があることをまるっきりわかっていない典型的な例と言えるでしょう。
そうは言っても、病気という問題を抱えていらっしゃる方にとっては、とにかくまずそのご病気を治す、もしそこまでいかなくても、少しでも病苦を和らげる、少しでも長く生きてもらう、それが最優先ですし、それを考えるのは人間として当然の感情だと思います。しかし、もし今の病気の状態が、医学の限界の向こう側にあったらどうしますか? そのときに、病気になった自分、そして周囲の人が、人としてどのようなことができるのかということが、病気になった本人だけでなく、病気の人を見ている周りの人にとっても、運命の分かれ道なのです。

例えば、いきなり病院で「余命三ヶ月です」なんて言われてしまったら、誰でも目の前が真っ暗になってしまうと思います。しかし医者の言う余命というのは、あくまで平均の値なのです。三ヶ月と言われたら三ヶ月きっかりで人生が終わるということではありません。もっと早い場合もありますし、そこから何年も生き長らえることができる人もいます。ただ一つ言えることは、その時点での三ヶ月という数字は、ある意味でそれが医学の限界ということでしょう。余命三ヶ月と告げられて、「もう自分の人生は終わりだ」と思ってふさぎ込んだりヤケになったり、「残された三ヶ月を有意義に生きよう」などと考える人は、私は「人事を尽くして」いるとはとうてい思えないのです。ではどうすれば良いのか、どうすれば医学の限界を乗り越えられるのかは、私が改めて申し上げるまでもないでしょう。
そしてその「余命三ヶ月」と言われたのが、もし自分自身ではなく、自分の親だったら、自分の友人だったら、その親や友人に対して自分は何ができるのか、何とかして助けてあげたいと思うのが、信念というものです。そこにあなたの「魂の世界」があるのです。

ここで皆さんの頭に思い浮かぶことは、もし仮にそのような、例えば余命三ヶ月のような病の問題を抱えた方が私を訪ねていらしたら、私がどういうことをするのかということだと思います。病気における唯一かつ、一番大事な問題は、何としてもその方を病気の苦しみから解放してあげなければならないということです。私は医者ではありませんから、医者のようなことは一切いたしませんし、薬に関してもあれこれ申し上げることは一切いたしません。医学とは無縁な、神仏の世界の力である「超霊力」と、神仏の世界にお願いをする「祈願行」によって、私は今日まで二十五年余り、病気に苦しむ方々を数え切れないほど救ってきました。ですから、その方をお救いすることに関しては確固たる自信があるのですが、では実際にどのようにその方をお救いするかというお話になると、それはお一人お一人違います。例えば、病気といっても見た目には健康な人と何の変わりもないような方と、本人が寝たきりだからと言ってご家族の方がお写真を持って来るような方とでは、方法がまったく変わることは、皆さんもわかると思います。ですから、その方に合った、間違いのないきちんとした方法を見極めることが、大切な問題になるのです。
そして、病気との闘いは、時間との闘いになります。なぜ病気で苦しむことになったのかとか、その人が今後どう努力すれば病気の苦しみが無くなるのか、といったことを聖霊界の摂理に基づいて説明をすることはもちろんできますし、私のホームページにもそれは簡単に載せてありますが、病気の方を目の前にして、そのような説教じみたことをくどくどと説いて、理解してもらうような時間は、正直言ってありません。そんなことをしている時間があるなら、私が一刻も早く観音様の前に座り、祈願行を始めた方が、病気の問題は早く解決するのです。

時々テレビや雑誌などで、有名な人が亡くなったとか、病気になって大変だとかいうことを見かけることがありますが、私にしてみれば、この人が私のところへ来ていれば助かったのにと、じれったいというか、歯がゆい気持ちになることがあります。このように書くと、だったら勝手に祈願して治してあげればいいじゃないか、それがその人のためじゃないかと言う方が必ずいらっしゃいます。病気のことではありませんが、私の友人からも、以前に同じようなことを言われたことがあります。しかし、それはできないのです。祈願行というのは、私が祈願をお引き受けした方自身に「羅門が祈願をしているんだ、ありがたいことだ」という自覚がなければ、何の効力も発揮されないのです。皆さんは不思議に思われるかもしれませんね。しかし、魂の世界、精神の世界、気持ちの世界、見えない神仏の世界では、当然のことなのです。例えば皆さんが時々神社などでお祈りをするのは、なぜでしょうか。それはそこに「こうありたい」と思う一つの願いがあるからです。私の祈願行は聖霊界と直結して行いますから、皆さんの神社のお祈りとは比べられないかもしれませんが、それが気持ちの世界、精神の世界のことであるという点は、何も変わりがありません。本人がきちんとした人事を尽くせば、きちんとした天命を得られますし、人事を尽くさなければ、何も得られないのです。神仏の世界というのは、現実の世界よりもその点がハッキリしているかもしれません。

今回も長くなってきましたので、このへんで一旦終わりにしますが、私が今回お話ししたかったことは、解決できない問題を神仏に託すという気持ちを、絶対に忘れてほしくないということです。最初に書いた私のホームページの話に戻りますが、ホームページの文章を隅から隅までじっくりと読んでいる人が、毎日必ずいるのです。このブログを読んでいる方でも、私の考え方に共感していただいてコメントを下さる方や、私の法話を聞きに遠くから来山される方もいます。そのような方がいらっしゃると、その方は神仏の力を忘れていないのだな、神仏の存在を感じているのだなと、私も嬉しくなるのです。病気のことについては、また書いていきたいと思います。