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今、若い人が、いや若い人だけでなく色々な人が、信仰というものから離れてしまいました。神も仏も何も感じない人が増えました。それは結局、そういうご時勢だと言えばそれっきりですが、私は非常に無明なことだと思います。「無明」というのは仏教の中に出てくる言葉ですが、「明るさが無い」ということです。愚かさや迷いのために物事の真実を理解できないという意味です。大晦日の除夜の鐘では、煩悩の数は百八個なんて言われていますが、細かく分類すれば、煩悩の数はもっともっと数え切れないほどたくさんあります。その数多い煩悩の中でも根本的な煩悩の一つが「無明」です。

今日はブログに大変嬉しいコメントを頂きまして、そのコメントの中に出てくる「念」ということについてお話をしようと思います。

この「念」というものは、仏の世界、神の世界とは切っても切れない関係にあるものです。
結論から書きますと、願いと言いますか、祈りと言いますか、念と言いますか、そういうものは完全に存在しています。よく耳にすることは、目に見えるとか見えないとかいうことで、人間は目に見えるものしか信じないという性格を持っています。私は目に見えるものしか信じないというなら、それで良いと思います。目に見えるものしか信じないという人は、インフルエンザだって信じなければいいんです。そんなのは目に見えるわけがありません。他にもいろいろな伝染病がたくさんありますが、見えないものは信じないならそれで結構だと思っております。今でこそ、顕微鏡を使ったりすれば、インフルエンザや伝染病のウイルスを見ることはできます。そういった目に見えないぐらい小さい生き物、ウイルスが人間に病気を起こすということは、今の人なら誰でも知っていることでしょうけれども、例えば顕微鏡がなかった時代の人たちにそんな話をしたところで、信じる人はいたでしょうか。
私が今日声を大きくして言いたいことは、「念」というものは存在するということです。「念」は見えるものではありませんが、念というものが存在していることは私が保証します。「念」というのは人の思いです。例えば、こうなりたい、こうあって欲しいという思いは、仏の世界、神の世界に念として厳然と存在するということを私は言いたいのです。本当に存在します。それはみんな個人差があるのですが、例えば今日コメントを頂いた方のように、その「念」をずっと持っていて、そして私の姿を写真で見て、そして語りかけ、手を合わせて頂く、そういう時の念というのは、私にも通じてくるのです。
それを「形がない」とか「目に見えない」とか言われて信じないというのなら、私はもう何も言いません。ただ、かえって見えないものの方が、強くて怖いものなのです。

今の世の中は、無明の世界と言えるでしょう。その無明の中にどっぷりと浸かっているままでは、自分が生きる意味も何もわからず、ただただ迷い続けるだけになってしまいます。信じるものを持つことは、決して怖いことではありません。むしろ、信じるものを持ちながら生きることのほうが、人間にとっては一番綺麗な生き方だと思います。
そういった目に見えない、願いとか、祈るとか、念といったものを心の中にしっかりと持ってご生活なさることが、無明でない人生を生きる、つまり、人生を明るく照らしていくためには絶対に必要です。「念」というものを軽く見ることは絶対にできません。くれぐれも念じるということを、大切になさって下さい。