今まで皆さんに「礼儀」「厳しさ」、そして「優しさ」についてお話ししてきましたが、皆さんがそれをどのようにお考えになっているか、ちょっと気になります。それは、どうか曲がった感覚で物事を捉えないでいただきたいということです。
今日は「感謝」ということについてお教えしていきたいと思います。昔の修身のような意味ではありません。

例えば世の中には、色々な宗教家がいっぱいいらっしゃいます。お寺さんのご住職であったり、その宗派の先生であったり、または有名な先生であったりします。その人たちの説法も、ものの考え方も、みんなバラバラですが、その説法は素晴らしくて、理にかなった説法でしょう。ここで、その説法は一体どこに向かっていくのかと考えますと、その説法を聞く人が、色々なことがまだわからなかったり、どうしたらいいかなという迷いを持っている人だったら、その色々な先生の説法を聞いてそれを参考にすると同時に、ああそういうものかと勉強するものだと私は思っています。ただ、難しい哲学的な理論だけで人間は変われるものではありませんし、また変わるものでもありません。
そこで絶対に必要なことは、ここのところ私がお話ししている、「礼儀」「厳しさ」「優しさ」をはじめとしたことです。
「信仰」と「運」とは、密接に繋がっているものなのです。これが本来は人間が良い運をつかむ、つまり自分が幸せになっていく原点なのです。

【質問】
先生、感謝というのはあくまでも、相手に関しての感謝でしょうか。自分というものはそこには存在しないのでしょうか。

【羅門】
いや、そんなことはありません。
まず馬鹿な人間というのは人に感謝することはしません。当たり前で通してしまいます。その「感謝しなきゃ」という気持ちすら出てこない馬鹿がいます。
養老孟司先生の「バカの壁」という本がありましたけれども、宗教の中にも「バカの壁」はあるのです。それは生活の中で、自分の経験とか、人との付き合いとかが浅くて常識がわからないということが「バカの壁」なのです。昔からある言葉で「馬鹿が治る薬はない」というのはそういうような意味ですよ。
とにかく感謝というのは、人に感謝することもそうですが、裏返せば感謝されるような人になりなさいということを言っているわけです。ですから、その両方がしっかりわかる人間でないと、良い運なんてそれこそ縁遠いということになるでしょう。
私は難しいことを言っているわけではないのです。皆さんに守ってもらいたい、これを覚えてもらいたいということをお教えしているわけです。私だって皆さんにお教えしていく時間は、もうあまり無いのです。年齢的にあと何年生きていくかはわからないのです。その短い間に、皆さんに幸せになりなさいということを一生懸命お教えしているわけです。それがわからなければ、それは単なる「バカの壁」で、それ以上私がお教えすることはないのです。
「礼儀」「厳しさ」「優しさ」「感謝」、これらはある意味では人間として当たり前のことなのです。そういった当たり前のことが出来ない人は、自分が知ったかぶりをしたって、どうにもなりませんし、人は認めません。地道にとか、いちいちとかいうこと以前に、絶対に頭から離さないことが必要でしょうね。
感謝というものは、
「ありがとうございます」
「あなたのおかげでこうなりました」
「とても自分にはできないことをして頂きました」
「本当に深い心でありがとうございました」
という、人様に対して頭を垂れて、本当に心の中からありがとうと言えるのが感謝なのです。そして自分も、相手から逆に感謝されるような行いと考えを持っていないと、この運をつかむというような大それたことはできません。

何回も言っていますが、礼儀を持つ、厳しさ、優しさ、そして今日は感謝というお話しをしています。でも、運をつかもうと思わなければ、そうしなくてもいいのです。良い運を自分に持ってこようとしなければいいのです。それは間違ってはいません。自分は平凡でいいんだ、その辺に転がっている人間で良いんだと思えば、これは楽です。何もする必要はないのです。
ただ、私が強く言いたいことは、そういう人間が、心の中では「幸せになりたい」なんて思っているのは、絶対にあってはならないことだということです。だからこそ、私の残りの人生をかけて、運をつかむ方法を一生懸命に私は言っているのです。色々な宗教家がいっぱいいて、色々な説法も法話もあるでしょう。でも違うことがあるのです。それは本当の人間のにおいがしないといけないということですね。

【質問】
先生、感謝というのはやっぱり心なのですね。
それと先生、キリスト教の中にも、人様に対して感謝をするという教えがいっぱいありますが、仏教にもそういう教えはあります。そういうところはキリスト教と仏教との類似点なのか、それとも繋がりがあるのかということが疑問に感じますが、いかがでしょうか?

【羅門】
それは類似点とは言えないでしょう。ただそれは、キリスト教であろうが仏教であろうが、それを信じてその教えを聞いているのは人間です。ですから、人間が感謝して人間が感謝されるというような、同じ点が教えの中にあることは当然だと思います。
キリスト教の場合は神の思し召しとか、神の御意志だとか、そういう言葉を言いますね。そういうことが仏教にも通じることはありますが、それはあまりお気になさらなくていいと思います。キリスト教はキリスト、仏教は仏教としてただ分けていればいいのです。どうか頭の中でごちゃごちゃにしないで下さい。
ただ、同じ教えはあるのです。なぜかというと、キリスト教の人も人間、仏教の人も人間だからです。

それでは次回またお話ししましょうね。