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美味しいそば・うどん屋はどこ? に参加中!
hitonomichi
よく、話の端々に「あの人は通だね」という言葉が交わされることがありますが、私も何かにつけて「食べ物に通」という言葉を使いたがる気質です。要するに、良く知っているということです。
目黒で山手線を降りて、白金側に一、二分歩いていきますと、左側の路地に「一茶庵」という蕎麦屋があります。

そこは、しもた屋を少しいじったような店構えです。小庭があって植物が植えてあったり、水を打って階段を粋に見せるような、そんな店では全然ないのです。コンクリートの粗打ちの階段をトントンと上がると、やはりそこはしもた屋の玄関。靴がやっと一足入るような小さな下足入れがあって、そこへ靴を入れて、そのしもた屋の1階と2階にある部屋に入ります。
なぜそんなにその蕎麦屋にこだわるかと言えば、その蕎麦屋の柚子切り蕎麦が、私にとって美味であったからです。一年中食べられるとは限りませんが、何を食べようかなと迷っている時なんかに、その迷いを一度に打ち消して、ああ柚子切りを食べよう、とすぐ決められるような素晴らしい味でした。考えてみますと、柚子切りは一年中いつでもあるとは限りませんので、その時その時に柚子切り蕎麦があるかどうかを心配するわけですが、これが一年中あったとしたら、さほど執着しなかったかもしれません。
人を誘う時にも、「粋な食べ物なんだけれども、柚子切りを食べた事はあるか」と、ちょっと通ぶって話をするときがあります。それに対して「いや食べたことがない」という返事が来ると、少し嬉しくなったりなんかします。ああこの人は知らないんだと思って「目黒にね、いい蕎麦屋があって、そこに柚子切りがあるんですよ。行ってみましょうか」と話を続ける、またその人との付き合いを続けるときに、ちょっとしたおいしいものを知っていると、何かいい繋ぎをしたような気持ちになるものです。

これは私が書いた、味のことについてのちょっとした話でしたが、最近私は気が付いたことがあります。
この仏教ということにおきまして、今のこの世の中は、若い人も大変活発になってはいますが、やはりオウムの件があってから、宗教に対して偏見を持ち、また一もなく二もなく、すぐに否定する世の中になってしまったようです。ですから、仏教の深い深い味わい、教え、そして摂理、そういうものが若い人たちにはもう無くなってきてしまったのです。非常に滑りの良い氷の上を歩いているようなもので、味気がないのです。仏教というものは、一人一人がそれぞれに感ずる哲学のような、寂のある表面を持っているものなのです。またその表面を色々な面において学ぶという、旅をするような味わいが仏教にはあるのです。木彫りの何百年も経つ、深い意味を持つ仏像はありますが、滑りの良いガラスのような表面をした仏像はあまり無いのです。
味わいというものはその人の感性ですから、一概に「これがいい」「あれがいい」ということは言えません。しかし、人に押し付けてでも教えたいということは皆さんもおありでしょう。私は教えの中には、味がなければいけないと思っているのです。
例えば、世の中には文化的なことが色々とありますが、人間はどんな場合にも、味わいが無いと飽きてしまうのです。私は今、蕎麦屋の話をしましたが、私は昔から池波正太郎さんの文が大好きです。池波さんは、我々がウキウキするような小説を書かれます。皆さんがよくご存じのように「鬼平犯科帳」そして「藤枝梅安」、これは非常に良い小説ですが、何が良いかと言えば、文の中にどうしても頭から離れない一つの技があるのです。その技は何かというと、食にあるのです。鬼平が子分達と一緒に料理屋で鍋をつつきます。その鍋の味わいが、読んでいる者にも伝わってくるような文章を池波さんはお書きになるのです。ある意味では「正太郎節」と言えるような、読んでいるうちに香りが伝わってくるような味わいがあるのです。
私は、仏教もそういうものではないかと思います。単に右から左へ、左から右へ行ったり来たりする教えのようなものは、私は味わいがないと思います。えっ、こんな教えがあるのかと、読んでいる人が気が付く、そしてその教えをまた喜ぶ、面白がる、そういうことに人間は興味を持って、その道を歩みたくなる、またそこを旅してみたくなるというのが心情ではないでしょうか。

私はしばらくブログを書いておりませんでしたが、すると読んで下さる人たちもどんどん減っていきます。それに関して私は、あまり何も感じないのです。なぜならば、ブログを書いて読んで下さる人の数が多くなるのは、こちらの意志ではないものですから、読んで下さる方にお任せするしかありませんし、またブログは手紙のようなものですし、また日記のようなものですから、もっと静かに話をしておけばいいと思っております。
私のお知り合いに、織田ゆり子さんという女性がいらっしゃいます。逗子にお住みでいらっしゃいます。大変、粋な女性です。年齢は34、5歳、または44、5歳、または50歳ちょっと前というように、謎のような美貌を持った粋な女性なのです。しかも、その女性は文筆家なのです。文章をお書きになると、それは素晴らしい味を持った女性独特の筆の走りでございます。私はインターネットを開くときに、その織田さんの文を読みたくて、織田さんの日記を見たくて、探すように見るのです。織田さんが何でそんなに私を惹きつけるかというと、それは文の冴えです。池波正太郎さんのように味わいのある文を、どんどんお書きになっていく、例えば政治についても鋭く、そのことに携わっていくというよりも、さらりと非常にインテリジェンスな文のタッチをなさいます。小気味良いような洒落た文は、人を惹きつけないではおかないのです。そして住んでいらっしゃるところが逗子ということになると、この湘南の海の景色がまた、織田さんとオーバーラップしてなかなか粋なものです。私はこの織田さんを尊敬申し上げると同時に、食通であった池波正太郎さんの文もまた、忘れがたいものに感じます。

先程書きましたお蕎麦ということを通して私が書きたいことは、仏教は何となく入っていって、静かに旅をすればいいのだということです。旅に必要なものには風景があります。そして、お腹の空くときもあるでしょう。何か涼しい風に吹かれて、樹木の間に冷ややかな風が流れて、そして奥深くに、ひょっとしたら滝があるのではないかと、その樹木の間を覗きたくなるような風景があり、そして楽しみがあって、旅が続けられていくわけです。あと小一時間も散歩をすれば、あのうなぎ屋に近くなるなとか考えながら、左の方へ歩いて散策していけば、思わぬ食べ物に巡り逢うことがあります。里芋とこんにゃくだけがおでんになっている、初老のお婆ちゃんが作ったお味噌のおでん、今日もあの里芋は煮えているかな、なんてことを考えながら道を歩いて、その思い出の味に釣られて歩いていくというような風情が人間には必要なのです。私はそういう風に思います。

またこの続きを是非お話したいと思っております。私は、ある人物を捜して、そして43年振りにその声を聞き、お話することができました。大変懐かしく、43年前のその方を思い浮かべました。その方は随筆家であり、小説家であり、画家であり、登山家でもあります。そして、大いなる食通でもあられます。是非この話を次回に書いてみたいと思います。読んで味わっていただければ、幸せです。
仏教というものは、教えと教えの間に少し休憩が必要なのです。頭の中でずっと人生のことを考え続けたら、やはり疲れます。疲れるのが人生だというような方がいたら、私はその人に言いたいのです。疲れっぱなしでは人生は分かりません。人生というものは、所々に休み所がないと困るのです。そしてまた、楽しみな道を歩いていくことが、仏教の教えを静かに自分の心の中に沈めていく作用をするのだと私は思っております。
近々お会いしましょう。今日はここまで。

岩満羅門