羅門の独り言 激辛評論

久保田役員長
次は会員さんのBさんからの質問です。Bさんどうぞ。

質問 私は現代という言葉がどういう意味を表すのか、現代とは一体何か、現代というものがどう動くのか、とても不安で心配です。ですから現代というものをどう捉えたらいいか、それについて、ちょっとしたことでも良いですから、御聖祖様に教えていただきたいと思います。

御聖祖
凄い質問ですね。
現代と言っても非常に抽象的な表現ですよね。まず、どこからどこまで現代なのかがわかりません。そして、10年前には10年前の現代があったはずなのです。そうすると、現代はどういうものかとか、現代に迷いがあるとかいうこと自体が、飛んでもない話で、贅沢な話なのです。
現代というものはすなわち、政治も経済も、そして人間の心も礼儀も考えも、すべて迷いの中にあるのです。その中で何が確定できるかといいますと、これは先程もお答えしましたように、まず科学とかそういうもので、この現代を確定できるということはできません。それは無理です。
必ず今日は明日になってしまいます。明日は未来です。そして今日は過去になっていくわけです。要するに現代は動いているということです。その中で、やはり消去法と言いますか、現代においていけないことは直していかなければいけないと、私は思います。
それから、現代の迷いということは、世界中が迷っているのではないかと思います。そして日本にだって、迷っている人がいっぱいいると思います。それは現代は、多すぎるぐらいの情報がいっぱいあります。ただ、そのたくさんの情報を頭の中で繋いで整理する脳の力は持っていないのです。自分なりに整理しようと思っても、情報の数があまり多いと、自分の生きてきた経験や体験をもとにして、その情報を整理することは不可能なのです。

例えば、人間には礼儀というものがございますが、現代に礼儀はあるでしょうか。私は礼儀は本当に少なくなって、礼儀を意識する人が少ないと思います。
結局は、そういう教育がされていないと思いますし、親や兄弟の教えとか、そういう家族的な枠というものを作っていないですから、失礼な言葉や無礼なことを平気で言いますし、情のないことをします。そういう人間はやはり人間として認めてはいけませんね。
私がこういう話をブログに書きますと、反論があると思います。反論はあっても良いのですが、事実で考えて下さい。今、礼儀正しいと言えるでしょうか。
例えば電話だってそうです。自分が用事のある時にだけ、用事のあるところへかけますよね。しばらく電話をしなかったのに、自分が用事のある時にだけ「しばらく」なんて言葉を使って相手と意思の疎通をしようと言ったって、世の中そうはいかないですよ。親しい人というのは常に、お互いによく連絡を取って、挨拶をしたり、世間話をして、心の絆というものを持っていなければいけません。

私は今、絆というサークルがありますが、利用者が少ないです。と言いますのは、それだけみんな孤独なのでしょう。孤独なのに、その孤独の癖が付いていますと、何か一人で勝手に決めた自分の鬱というものを持っているのでしょう。

私は神仏の力を借りなさいといつも言っていますが、神仏の力というのはどういうものか、自分で一度信仰してみると良いですよ。そしてその中で、自分の生き方というものを学ばなければ駄目ですね。自分勝手で、我がままで、うぬぼれていたら、幸せになるとか、結婚するとか、うまくいかないから離婚するとか、会社を辞めるとか、そんな悲観的なマイナス思考の人生というのは、そんなところにどこにも幸せなんかありませんよ。
何事も、最初から良いか悪いかという結論をつけないで、前を向いて、自分はこう思うからこうやってみようという決心を持っていないといけません。そして誰も他人のために、この道を行きなさいという道しるべは付けてくれません。もし道しるべがあったとしても、それを読んでそれに従うような人間もいません。それだけ今、心の中ががさつなのです。今はそうして、みんなが迷っているのです。それは結論を出せないからです。では、どうしたらいいかと言うと、人間がもっと素朴になることです。
何でも便利で、交通の便が良いとか、飛行機の旅が早くなったとか、別にそういうことが近代化ではないのです。本当の近代化というのは、人間がきちんと心の中で、自分本位のものを生み出していく、そしてそれに自分が納得していく、そして味わっていく、そして素朴に生きていかなければいけないと、私はそういう風に考えます。素朴に思っていれば、自惚れも出てきません。
日本が今、経済が大変だとか、消費税を10%にするとか、税金を増やすとか言っていますけれども、これだってそうでしょう。責任は政治でしょう。政治家というものがいるならば、その政治家の責任でしょう。政治家はどうしているかと言うと、国民の顔色を見ながら色々政治をしているのでしょう。大臣が、人間の住んでいるところを「死の町」なんていう言葉で表現をするなんていうことが、もう礼儀も何もないし、頭脳も何もないし、教養も何もないし、単なる大臣としての自惚れしかありません。ではその原子力発電所のところが死の町というならば、私は「死の心」というものがあると思いますよ。
昔の修身の時間に教えていたような「一、子供は親孝行するべし」という当たり前のことが古臭いと言われているのだったら、私は非常に怒りますよ。自分だって必ず親になるのです。そして今、親のお陰で生きている人だっていっぱいいるのです。親が早く死んじゃったからとか、そんな屁理屈を言う問題ではないのです。人間の心の中には、感謝というものが常に無ければいけません。
取り留めのない話になりましたけれども、あなたの中に、私が言っていることがちょこちょこと入っていけば、私はそれで満足です。
とにかく素朴になりなさい。そして、どんな神様でも良いです。どんな仏様でも良いですから、一度しっかりと信仰を持ってみて下さい。
ただ、この日本の宗教の世界をちょっと覗いてみますと、神の世界は何となく華やかで、何となく威厳的なものがありますよね。でも仏の世界というと、すぐに葬式を思い出しますよね。亡くなった人のことばかり考えるのが仏ですね。私はそれは違うと思うのです。今までに仏教の中にいた、仏教の政治家、仏教の師範というものが、仏教というものに対してちょっと曲がった考え方を持たせる世の中を作ってきたのだと思いますよ。仏教の世界にだって、羅漢がいますし、菩薩もいますし、それがもっと明るい形で一般の国民にも浸透するような方法を採らなかったのは、仏教界の責任だと私は思っております。
人の教えは常に明るくなければいけないのです。そして人の教えは常に正々堂々としていなければいけません。日本は神と仏に分けてしまったのですけれども、その辺がどうも私には納得が行かない点ですね。