羅門の独り言 激辛評論

久保田役員長
御聖祖様にお尋ねしてお答えを頂くこのコーナー、今日はCさんからの質問です。

質問 科学的な根拠ということに対して、御聖祖様はどのようなお考えを持っていらっしゃるか、それをお聞かせ下さい。

御聖祖
科学的な根拠、これはついて回る問題なのです。
人間というのは生きていながら、何か確実なものを欲しがるのです。それはなぜかと言うと、自分が不安定で、自分が答えを出せない、自分が方程式も作れない、ですから何かよく解らないことがあると、宙に浮いているような感覚で物事を考えます。しかし、それでもやっぱり答えは出て来ません。
その場合に一番頼りになるのは、世の中で認められるものは何かと考えるのです。それは認めるという言葉よりも、世の中が口出しできない、反対できない、異論があったら方程式でその異論を上から押さえつける、そのような方法で科学的な根拠という言葉を使います。
今の日本人は小さい頃から、物理や化学の理論を勉強しています。そういうことで、科学というのは絶対的なものとして頭の中に収まっているがゆえに、専門用語を使ったり、方程式を使ったりして、科学的な根拠によって押してこられると、みんな黙ってしまうような、そういう感覚があるのです。

但し科学というものは、どこまでが本当なのかということには、色々な感覚があります。そして「理論的に考えたらそうなるのかな」ということを「科学的」と定義づけるのかなとも思います。そして言えることは、科学は今どこまで進歩しているのか、そしてこれからどこまで進歩していくのか、これは私の理論で言うと、全く未知数です。
例えば、昔は馬車が走っていて、馬車が交通の便を補っていました。今は飛行機で補う、新幹線で補う、そのような風に急激な変化があるのです。そうしますと、馬車というのは科学的な根拠でできたものではなく、こうすれば荷車を馬でひかせられるというように考えてできたものです。ところが飛行機や新幹線は、90%は科学でできているわけです。しかし新幹線は、昔のイギリスの蒸気機関車の時代から、レールと車輪という形は、全く何一つ変わっていないのです。どんなに科学の最先端のものが走ろうと、車輪とレールという形は崩されないで、そのまま使っているわけです。ですから、どの部門が科学として進んでいくのか、これは未知数です。
そして科学や物理には、色々な分野があります。そしてそれらはすべて「科学的根拠」として使われます。そして一般の人たちはやはり、「科学的な根拠が無い」ということで物事を否定する場合には、科学を認めているからそう言うわけでしょう。
そういう点でいくと、神の世界や仏の世界というのは科学的ではないということになります。神も科学的ではないし、仏の世界も科学的ではない。しかしその科学的でないということで考えるならば、では科学は絶対性のものかということになります。
ところが、科学的な根拠だけに生きていく人間は、科学の進歩とか、新しい発見とかがあると、必ず先へ行って覆されていくのです。
例えば、少し前に発表されたように、ニュートリノというものが光より速いという理論が、公になりそうになっています。そうしますと、かつてアインシュタインが唱えた理論は覆されて、今までの科学で崇拝されていたアインシュタインの理論が、この世から消えてしまうわけです。
そして、その科学でしっかり認められた宇宙物理論、理論物理学でも、宇宙はだんだん広がっているのか、それともだんだんしぼんできているのかという議論がずっと続いてきたわけです。これはホーキング博士をはじめ、色々な物理学者が、要するに科学的な感覚で発表していることを、一般の人たちもみんな認めてきたわけです。
私の理論で言えば、宇宙は縮んでいません。宇宙は広がりつつあるのです。
そうしますと、その一般の人たちが認めた物理論や科学論に対して、絶対ダメと言ったのは、神の理論とか仏の理論ですよね。その世界も認められてこない場合もうんと多かったわけです。こういうことに関して私は、神の世界や仏の世界は、では一体何の理論かというと、やはりこれは魂の理論なのです。ですから魂というものに関しても、科学的な根拠が無いということで否定されているわけです。
ところが今ここに来て、そうして肯定されている科学が、ひっくり返りそうになっているわけです。
今までアインシュタインの時代から、みんなが言ってきた科学の大変な理論、全員が認めていた理論がひっくり返りますと、科学的根拠が科学的根拠にならなくなるということです。要するに、今までの科学は全部不正解ということになります。そうしますと、今まで私の言ったことに対して「科学的な根拠が無い」と言われてきたことは、どのようにお考えになるのでしょうか。
ただ、ここで誤解しないでいただきたいのは、私は科学を否定するわけではありません。科学も絶対に必要なものです。要するに両輪なのです。科学というものを、人間の心というように考えたらいいのです。

人間の心は、色々なことを考えます。そして色々なことに遭遇します。そして、色々な経験によって心を育てていきます。もちろん感情も心ですから、感情も色々なものに支配されていきます。人間というものは、心を自分の中で変化させられる、自分の中で作り上げられることで、自分で自分が納得する、自分が落ち着くのです。そのような色々な変化を持っているのが心なのです。
その心の良い支えが、私は神仏の世界だと思っております。そしてその中にある経典やバイブルを見ましても、人間にとって必要なことしか書いてありません。逆に言えば、神仏の世界が全くないところで人間が生きているとしたら、迷いの世界で生きていくというのが人間の本質でしょう。
これは神仏に対して失礼な言い方かもしれませんが、神仏が導いてくれる、アドバイスしてくれる、神仏がこういう風に考えなさいと誘導してくれる、教えてくれる、神仏というのはそういうことに大変な力を持っているのではないかと、私はそのように考えます。ですから「あなたが神様だったらどうする」「あなたが仏様のような心を持っていたらどうする」という問いに、十分に値するのが神仏だと思っております。ですから、自分と神仏とで心の会議をすることが非常に大事ではないでしょうか。
神と仏というものは、本当に長い歴史を持っています。それはヒンズー教でもイスラム教でも、みんな歴史を持っています。そして世界にある神や仏の世界は、数えられないほどあるのです。それはそれだけ必要だということです。それは人間が必要としているわけです。
ですからそのあたりを自分で吟味して、科学というもの、科学の根拠は一体何なのだろうと考えて下さい。実際に科学的根拠といっても、科学は変わっていくのです。根拠は変わっていくのです。ですから、科学的な根拠があるからと言って手放しで認めるわけにはいきませんし、それに頼り切る必要もありません。
そして私が皆さんに、ちゃんと認識しなければいけないと言いたいことは、魂や心の世界、人間の気持ちの世界、神仏の世界、その世界をちゃんと肯定して、そこに静かに自分の心を委ねることが、私は本当の心の科学だと思うということです。
人間というのはやはり、人間自身の心の中にある認識というもの、意識というもの、それが自分の人生の運命を決めると言って間違いないでしょう。科学が決めるのではありません。
これが私は今日の問いに関して、お答えすることでございます。
一番頼らなければいけないのは、自分の心と、神仏の心です。これをわかっていただきたいですね。そして、神との縁、仏との縁、人間同士の縁、さあこれは科学ではないのです。魂と心の響きなのです。わかっていただきたいと思います。