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久保田師範長
御聖祖様、大変お暑うございます。
この異常気象の夏に関しまして、御聖祖様は先日、このブログの予知力・予言力・予測力の欄で、気象庁の記録を塗り替えるような天気の状態であるとおっしゃいましたが、その通り、雨や熱中症など、大変色々な問題が出てきまして、日本中が大荒れに荒れております。

御聖祖
確かにその通りですね。私はこの八月と九月は、気象庁の記録を塗り替えるであろうと予言をいたしました。ただ、心配なのは、この予言がそのようになっていくということは、そうなるからなると言っているのですけれども、それに関して、必ず、尊い、あまりにも尊い人の命が、自然の災害によって亡くなっていくということがあります。これは非常に耐えられないですね。

久保田師範長
毎年、毎年、毎年繰り返されるこの水害の問題や、それから異常に気温が高くなってきていますが、こういうことも、やはりこれは、ひとつの天命なのでしょうか。我々は自然の法則として、受け止めなければいけないのでしょうか。

御聖祖
それは受け止めていかなければなりません。人間が生まれてきたこの世界は、常に自然と平行して、自然と一緒に暮らしてきているのです。ですから、この自然のお天気ということが、人間に都合の良いことばかりということは存在しないのです。
人間は自分の都合ばかり考えますね。最近よく私が気にすることは、嘘も平気で言うようになりましたし、弁解は天才ですね。小説家も負けるほど、弁解は天才です。今、一般の人間の行動がそのようになってきてしまっているということが、ある意味では非常に残念なことです。

久保田師範長
このたび先月から、大本堂に「天寿釈迦如来」を御安置なさいましたが、この摂理について、御聖祖様から今一度ご説明を頂きたいと思いますが、いかがでしょうか。

御聖祖
説明と言うよりも、これは摂理論です。
お釈迦様という人は実在の人物で、非常に親しみを感じる仏でいらっしゃいます。お釈迦様のひとつの形を考えてみますと、人間にとって非常に親しみが湧く、そして安心ができる、それが釈迦如来なのです。
私は三十年ぶりに、温存していた釈迦如来を本堂へ出したわけです。そして私はこの釈迦如来に「天寿釈迦」という命名をいたしました。
人間は生まれた時からもう、いつか死ぬということは決まっているわけです。そして、その生まれてから死を迎えるまでの間に、人間が活躍する、人間が躍動する、人間が感情を生む、そのように色々なその人間の独特な人生があるわけですが、悲しいかな、生まれた時にもう死ぬことが決定しているという理論は、当たり前のことになりました。そうして生きている間に、人間が困ることは、病気になることです。体と心が病むことです。そうなりますと、人間は生活が変わってきます。師範長もそう思いませんか?

久保田師範長
私の母も心臓を病んで、御聖祖様に助けていただきましたが、やはり病気になったことで、子供である私なんかも本当に心配いたしました。当事者の母は、やはり心臓病と言うことで、非常に苦しんだと思います。悩んだと思います。

御聖祖
ですから、私は本音で行かなければいけないと思うんです。
今、医師会の医者で、ガンに関する権威の医者がいます。近藤誠さんという医者です。この近藤誠さんの理論については、私も非常に共鳴することが多いのです。それは、近藤誠さんの医者としての理論の中に、心が存在することです。その心について、私はこのブログで改めてお書きしたいと思っているぐらい、近藤誠さんの理論というのは素晴らしいものです。そのような医者もいらっしゃるから、私も自信を持って言えるのですが、病気というものは、治していくことが理論なのかもしれません。
しかし一番困ることは、本当に治っていくのか、本当に助かっていくのかという問題と同時に、その病気のために床に就いて、ずっと長年、子供達、または色々な方々にご迷惑を掛けて、闘病生活になることです。そうしますとその病気のために、長らえて生きていても、動くこともできない、自ら食べることもできない、考えも段々薄くなっていく、そういう時に、それは人間として生きているということにはならないと、私は思うのです。人生というものを色々と勤めてきて、もしそういう状態に入った時、治っていくものは治すでしょう。だけど、医学の世界にも、超霊力の世界にも、限界というものは必ずあります。その時に例えば、脳死というような問題、これは皆さんも知っているように、もう本人には、生きている感覚も何もありません。ただ、脳が動いているだけで、体は動いていない、そういうような状態で、死亡と同じ決断を付けられないまま、単に生きている、単に心臓が動いているというだけの人間の姿は、私は本来の姿ではないと思っているのです。
そして誰でも、自分が仮にそうなるということを考えた時は、もし自分が死ぬならば、家族にも誰にも迷惑を掛けないで、コロッと死にたいと、最後は自分自身でさっと人生の幕を引きたいのだというのが、私は人間の本心ではないかと思っております。
それで、この「天寿釈迦如来」を私は安置したわけです。
この「天寿釈迦如来」に、手でお触れなさい。この像には三十年間の力が入っていますから、この釈迦如来の体を手でお触りなさい。触れなさい。そして、自分に病気がなく、健康になっていくように祈ることと、もう一つ、どうしてももう限界の年齢が来た時には、本当に言葉は軽くて嫌な言葉ですが、コロリと自分の人生に自分で幕を引けるということにして下さい、お釈迦様お願いします、そしてあなたのそばへ行かせて下さい、そのような祈りと願いと、自分の心の中にある摂理と、そういうことを一体で考えることが、この「天寿釈迦如来」の本来の姿なのです。
確かに聖尊殿堂の本堂へいらっしゃるには遠いかもしれませんが、人間、遠い近いを考えているようでは、それは大した問題ではありません。遠くても近くても、そういうことは一切関係なく、聖尊殿堂の本堂に、第二と第四の日曜日に訪れて、そして「天寿釈迦如来」の体に触れて、「どうか自分の最後の人生は、綺麗に幕を引かせて下さい」という願いを、この釈迦如来の体を持ちながら祈るということが、どのぐらい凄いことなのか、私は今皆さんが考えていらっしゃる、想像なさっている以上のものであるということを、ここにご説明したいですね。

久保田師範長
確かに人間は、御聖祖様のおっしゃる通り、自分は自分でなかなかままならないものです。ですから、子供の時はすくすく大きくなって、いい子に育つように、成人になれば良い結婚をして、良い家庭を作ってという、全部すべて理想的に人生を考えていますが、人生が終わりの頃には、やはり病気のことや、自分の死後のことを考えるのが、人間の常識だと私も思っております。
ですから、御聖祖様がこのように「天寿釈迦如来」を本堂に御安置されて、三十年間の凄い力を蓄えていることや、この釈迦如来の御体に触れますことで、天寿釈迦如来の御力で、また自分の考えで、人生に幕を引く時が来た時には、綺麗に幕を引くという自信が得られること、これらは人生にとって一番素晴らしいことではないでしょうか。
病気が良くなることも、この天寿釈迦如来にお願いが出来るのですから、体に触れて、そして御聖祖様の御力と、釈迦如来の御力で、人間として綺麗な幕を引くということが、素晴らしい理想ではないでしょうか。
そうしてご来山なさって、この天寿釈迦如来に触れる、そして御聖祖様の「行」を御拝見したり、それから御聖祖様の御力・超霊力を授けていただいて、体にエネルギーを蓄えて、素晴らしいひと時をお過ごしになられることが、私は最高の理想の時間だと思います。このブログをお読みの皆さんにもご来山頂けたら、私も嬉しいです。
御聖祖様、今日は細々としたことまでお尋ねして、申し訳ございません。どうか皆さんに伝わるようにと、私も願っております。天寿釈迦如来を御安置していただいて、心から御礼を申し上げます。

御聖祖
一から十まで、十から百まで、人間は常に幸せを考えなければいけません。人間は確かにマイナス思考になる時があるのです。要するに落ち込むという言葉をよく言いますが、それはそういうひと時もあるのです。私も時々感じます。しかし、やはり自分に自信を持って、そして、どんなことがあっても、神仏に御力を借りて、自分の人生を進んでいくということが、私は何よりも大切なことだと確信をしております。
科学や医学、色々な学問があります。しかし、人間には心の学問というものもあります。その心の学問の中で、自分の学問を持って、そして人生のことをしっかりお考え頂きたいと思っております。
どうか皆さんに、数々の御力と御加護がございますように、私も心から御祈念申し上げます。師範長、今日はありがとうございました。 …羅門